私が開院した理由
●カイロとの出会い
僕がカイロプラクティックを初めて知ったのは今から30年以上前、高校1年生の時です
学校からの帰り道、カバンを肩に掛けて駅の階段を駆け上っている時に、急に背中で「バチン」と音がしました。ピンと張ったロープが切れるような大きな音でした。その時は何ともなかったのですが翌朝には激痛で悶絶、文字通り床を這ってしか動けませんでした。
この様な状態でしたが病院に行ってもさっぱり症状が改善しませんでした。数日後に学校の駅近くのカイロ院に、看板を見かけたので入ってみました。この時はカイロが何なのかなんて全く分かりません。
何だか不思議な施術が終わって駅への帰り道を歩いていましたら、体の調子が改善し体が軽くなっている事に気が付きました。後から感じたその不思議な効果に感動しました。そして通院が楽しみになり、その後も半年くらい通いました。
「なぜこんなに体が軽くなるんだろう? …」
帰り道はいつも小走りしたくなった程です。
その時このカイロにとても興味が湧きましたが、今と違ってネットで情報とか入りません。それに将来自営業をするという発想がなく、小市民的ですが自分はサラリーマンになるんだとしか思っていませんでした。
●平穏な日から突然の衝撃
それから10年が過ぎ、もう働いて結婚もしていました。その頃には中学の時の同級生が、小さいながらも会社を興していました。彼は中学を出てすぐ就職したのですが、この頃には数人の従業員を雇い、立派な社長になっていたのです。傍目で見て、「偉いなぁ」と感心していました。
しかし私自身の夢は、「子供が出来たら2世帯住宅を建てて、両親と共に幸せな家庭を築く」と思い描いてましたので、その夢が叶うように地味にコツコツと仕事をしていました。
このような生活をしている中、運よく隣の広い空き地を買う事が出来ました。2世帯住宅が充分に建てられます。着実に夢が叶っていると思われた時、衝撃的な事が起こりました。
家を建てる事を楽しみにしていた母親が、癌で半年も持たずに亡くなってしまったのです。癌が見つかった時はもう末期でした。
そして母親の死の数年後に、失意からまだ立ち直れないような状況だった父親も、自宅で急死しました。
「死ぬ時というのは何とあっけないんだろう…」
…と思いました。
●虚無感
このように僕は両親を早くに亡くしてしまい、そして子供にも恵まれませんでした。
結婚はしたのに、両親に子供を抱かせてあげる事が出来なかったのです。今でも無念に思います。
それから多人数で暮らせる2世帯住宅を建てようと夫婦で夢見て貯金をしていたのですが、それも虚しく全くの無に帰してしまいました。
どうせ二人きりです。家を建てる事なんてどうでもよくなりました。
もう両親の世話をする事もない。
子供を育てる事もない。
「人類の繁栄という点で見れば、自分は全く貢献していない。DNAも残せていない。自分の存在なんて、人類の発展とか、世の中の流れとは全く関係ないんだな」
そんな風に思うと、自分は何の為に生きているのか分からなくなり、毎日虚しい気持ちでサラリーマンを続けていました。
●ひらめき
そんな折、頻発する腰痛で整形外科に通っている時の事です。
「そう言えば昔カイロに行って、調子良くなったことがあったな」
「なんか変な方法だったけど、病院より調子良くなったっけ」
高校生の頃にカイロを受けて、体の調子良さに感動した経験を思い出しました。そして今度は普及していたインターネットで調べたりして、15年経ってまたカイロに興味が湧いてきました。
その時、ホントに電球が頭の中で光ったようにひらめきました。
「そうだ、自分がこのカイロを身に付けて他の困っている人達を救えたら、それは人類への貢献になるのではないか?」
●ミッション
痛みから解放された人が、愛する家族に笑顔を見せられるようにしてあげたい。
例えば、痛みで憂鬱な顔をしていたお母さんが、子供に笑顔を見せられるように。
その笑顔を見て安心した子供が、笑顔になって今度はお母さんが安心する。
お婆ちゃんが少しでも長く自分の足で歩けるように。
…介護が少なくなるように。
…認知症にならないように。
同じ屋根の下で、少しでも長く家族と共に暮らせるように…。
↑僕はこれが手に入らなかったけど、
現在は辛い症状で困っている方達の家庭には、将来は出来る限り…
「家族全員が幸せになるように…」
…このような好循環を、カイロプラクティックで作ろう
皆が幸せな人生を送れる為の、後方支援となろう
ささやかだけど、僕はこれで人類の繁栄に貢献しよう
他人が幸せになる事を 自分の幸せとしよう…
…あのひらめいた日から何度も何度も繰り返し考えて、現在このような思いを僕個人のミッションステートメント(価値観、行動指針)にしています。
…さて、天国の両親も賛同してくれてるでしょうか?
●開業してから現在、そして未来への思い
カイロの学校を卒業後、実家のある福島県で開業しました。もう20年近く前です。
この様な思いから最初福島で開業した時の施術料金は、70才以上の方と高校生以下の学生さんは2500円という安さに設定していました。
これは、 ・早く亡くなって出来なかった両親への、親孝行の代わり
・自分がやれなかった子育ての代わり、応援、後方支援
…としてです。
現在では一律同じ料金で、皆様には申し訳ないですけど(笑)。
このような思いから、人に喜ばれれば嬉しいし、期待に添えられなかった時は辛くなります。
後方支援どころか、失望させてしまった事もたくさんあります。当然自分も落ち込みます。
(メサイヤ症候群かも知れません)
しかしそれらの経験も無駄にせず、将来「いい経験であった」と思えるように今後も、というか死ぬまで一生このミッションを持ち続けて、自分を成長させていくつもりです。
この世を去る時、「こう言って死にたい」という言葉が2つあります。
1つは妻に対してですが、もう一つはこの仕事に対してです。
ちょっと恥ずかしいので具体的には言えませんが、要するにこのミッションを貫けたら言える言葉です。 そうなるようにこれからも努力します。
私はこのような理由で開業し、そして現在もまだそのミッションは進行中です。
最後までお読み頂きありがとうございました。
HANDS-ON院長 馬上 忠昭